トランスフォーメーション(Transformation)と言う語は一般に米軍再編の意味に使われますが、本来的には物体や構造が変質することをいいます。いま世界の多極化が進むなかで、アメリカは従来の一極主義から国際協調主義に大きく舵を取ろうとしています。そのことを正しく認識しておかないと、わが国の政治と経済はとんでもない迷い道に分け入りそうな気がします。
1776年(7月4日)の建国以来、アメリカはキリスト教的な自由と民主主義をその精神的基盤に、まさしく純粋培養された近代西欧文明の旗手として大きく発展し、また、イギリスにおける19世紀後半の株式会社制度確立(準則主義)をいち早く導入して、世界に冠たる巨大な資本主義国家として繁栄を謳歌してきました。
しかし、中国をはじめとした新興国のめざましい経済的成長による世界的な経済構造の変化によって、20世紀の先進工業国が至上のものとしてきた合理主義や進歩史観、文明的普遍主義とそれに伴うさまざまなビジネス文化(ルール)が変質をはじめていることを今回は少し真剣に考えたいと思っています。
実は、いままでにも幾多の警世の書が、アメリカ一極主義を批判的に分析してきましたし、おじさんの手元にある20世紀末のいくつかの経済書でも、アメリカが主導する市場原理主義やグローバリズムのままに21世紀の世界経済が成長し続けることはないだろうと指摘しています。
しかし、それからの十年、わが国はそのときに備えた周到な備えをしたわけでもなく、新自由主義者の手による微々たる経済活性化に刹那的な糠喜びを感じていた間に、アメリカで進んだ住宅バブル崩壊に端を発した世界同時不況で横っ面を痛打されました。まさに2001年にWTCビルがテロで破壊されたことに象徴的な、自国の食糧政策についてすら確固たる未来指針を打ち出せないままです。
21世紀の歴史とは
ところで、「ヨーロッパ最高の知性」といわれるフランスの知識人ジャック・アタリは、その著『21世紀の歴史』(作品社)において、21世紀には大きな波が3つやってくるといいます。
第一の波 マネーが全てという究極の市場主義が支配する「超帝国」の世界
第二の波 多極化構造における様々な暴力衝突の起きる「超紛争」の世界
第三の波 市場民主主義と利他愛に満ちた「超民主主義」の世界
思うに、市場原理主義は、20世紀のアメリカの世界戦略のなかで、アメリカ型の経済政策とビジネスルールに基づいて、先進工業国とその国民を豊かにすることに寄与しました。しかし、先に述べたように、ジャック・アタリの分析による第一の波は、すでに2008年には崩壊し始めたといえるでしょう。
また、第二の波が、2001年9月11日に始まったといえないまでも、人類すべての究極の願いである戦争や殺戮の根絶どころか、中東のみならず中国やその他の新興国においても、民族的な文化や価値観の違いに起因する紛争が次々と起こっています。
これを克服するのは、多極化構造(異文化や価値観の多様化)の相互承認しかないのではないかと思いますが、人類はまだ、そこまで寛容にも賢明にもなりきれていません。いやそれ以上に、人類を救うはずの宗教までもが紛争の本質的な要素の部分に組み込まれているのです。
できるだけ早く、アタリの言う「市場民主主義と利他愛に満ちた超民主主義」を実現しなければ、今世紀は、20世紀以上に混沌とした世界情勢の中で、殺戮や横暴のまかり通るコロセウムのままでしょう。
もはや、各国の国内の社会の諸問題や利害関係の解決を経済の高成長率ないし規模の拡大によって解決しようとしても不可能です。所得や消費の水準向上によって豊かさを実現するということではなく、個人や家族の生活を尊重し、多様な選択肢の中から自分の人生について自由な選択ができる豊かさを社会的価値として受容していくことが必要です。
最近、またしても、わが国でトレンドになりつつある企業間提携や経営統合は、20世紀型の「規模の拡大」という経営価値観に基づいたものであれば、ふたたび大きな間違いの道を歩んでいるのかも知れないと思います。
なぜならば、多様な価値観を承認し、提供し、人々の人生の幸福を拓くという目的からは、経営統合という手法は本質部分で逆行しているからです。アメリカが変わろうとしているときに、従来のアメリカ型経営理念を引きずっていくことは、「いつか来た道」を引き返しているということではないでしょうか。
明確な目的・目標を持つ情報化は人生観の変質を求める
このような大きな環境の変化とともに忘れてならないのは、ICTテクノロジーの進歩した社会では、みごとに一人ひとりの行動のすべてを簡単に記録できることです。アタリが「超監視体制」と呼ぶように、ユビキタスコンピューティングと個人データベースによって、個人の動き、各製品の履歴などのすべてが企業や政府に把握されることになります。もちろん、世界中の防犯監視カメラは、個人の街頭行動を逐一記録しています。
「隠しごとは一切できなくなる。これまで社会の生活条件であった秘密厳守は、存在意義を失い、全員が全員のことをすべて知ることになる。社会から秘密を知ることへの罪悪感は減り、寛容性は増す」というアタリの見解には、おじさんもいまだ心情的に完全に承伏しかねますが、ICTテクノロジーの進歩した社会は「誰からもほっておいてもらえる自由」、「好きなことを密かに楽しむ自由」などは、(いままでにもどれだけあったかは別にして)ほとんどできなくなる社会に近づくことは紛れもない事実です。
個人情報保護法は、20世紀的自由観のもとで個人情報漏洩の防波堤として期待されました。しかし、情報漏洩と不正使用は後を絶ちません。不正使用の犯罪を防止するためには、すべての取引を生体認証によることにすれば可能です。個人暗証番号など意味をなさなくなります。おじさんが常々主張しているインターネット上の情報に関する発信者署名の問題も簡単に実現できるはずです。(もちろん、インフラ部分の投資を安易に見積もっているわけではありませんが)。
わたしたちは、現代自由主義が、相手の自由を尊重しない、いわゆる身勝手なエゴイズムに変質していることを大いに嘆いてきました。しかし、ユビキタスコンピューティングの実現は、すべての人に平等に個人情報や行動の全面開示を要求します。嘘や隠し事などできなくなるのです。
結果的に、まるで『1984年』(ジョージ・オーウェル)の世界のように、人間相互の信頼や思いやりというような曖昧で情緒的な観念を超えた、全体監視が行われることになるでしょう。すなわち情報化社会の進展によって、人類が永年培ってきた自由や民主主義に関する常識や道徳観念をトランスフォーメーションしなければならなくなります。
高度情報化社会とは、「知識や情報が商品になる」というようなビジネス上の発想をこえて、人類に新しい生存の意味を突きつけています。
逃げられない状況に自分を追い込む新しい生存の意味とは
「隠し事が一切できなく」なれば、衝動的な暴力行為をのぞいて、一般犯罪も大きく減少するでしょう。また。おじさんが長いあいだ愚考し続けてきた、「企業不祥事絶滅のための株式会社制度上の問題」などあまり考慮しなくてもよいのかもしれません。なぜなら、企業行動も財務も会計もみんな完全なガラス張りになるわけです。
現在は許されざる不正、不実なども、すべてが全体監視の中に置かれた時には、一部はその道徳的な責めから解放されることでしょう。自然犯についてはより厳格な社会になっても、文化による行動制約については、価値観の多様性の相互承認によって許容されるケースが起こりうるかも知れません。それが「自他愛」の本質でしょう。
今回のシリーズは、「脱情報化社会への序章」という副題をつけましたが、その意味は、「より多くの情報を知ることが競争優位に繋がる社会の終焉」ということです。そう遅くない時期に、情報はすべて共有され、必要に応じて利用される社会が訪れるでしょう。デジタル・デバイドもグローバルに克服されるはずです。
次回(最終回)は、『未来が評価する現代史(地球と人類の未来社会へのプロローグ)』です。
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