ICTが正す企業文化と倫理

第1回 はじめに~企業とは何か

概要

「コーポレートガバナンスや内部統制について、その見直しや強化が叫ばれる昨今、競争と効率性の追求をその本質に秘めたままの企業社会はこれからどこに向うのだろうか」について連載シリーズとして掲載いたします。

まずここで宣言しておきたいと思いますが、わたしの基本的なスタンスは、『企業活動は、人間(内部も外部も含む)を幸せにしなければならない』ということです。この原点を抜きにして、企業の存続や発展について考察しても、まったく価値がないと考えています。

ところで、毎朝、新聞を開くたびに、思わず「またか!」と叫ぶような破廉恥な企業行動についての報道に接することがしばしばです。実感として、確かに企業不祥事は増加し、かつ、それらが前車の徹を踏んだように、ほとんど同じあやまちであることに唖然とします。

経営関連書籍を紐解いても、いたるところに、「今、何かがおかしい」とか、「頻発する企業不祥事をどうするか」という趣旨の問題提起を発見します。どうもわたしたちは、20世紀後半から引き継いだ大きな宿題をまだ少しも解決できずにいるようです。

バブルの崩壊や大地震に打ちのめされながら、企業も個人も、ともに痛みを分け合って苦しみぬいた1990年代、わたしたちが予想した(夢見た)21世紀とは、こんなに救いようもなく次々と企業の反社会的行動が露見するような惨めな社会ではなかったはずです。

目次
企業の存在意義
企業というシステム
企業不祥事のベースにあるもの

 

企業の存在意義

ところで、企業の存在意義を考えるとき忘れてならないのは、現代資本主義においては、ほとんどの人々(市民)が企業に所属して、日々その生を営んでいるという現実です。企業が社会に存在するための重要な生物学的かつ根源的な意義でもあります。

古来、人間は集団を作ることで、互いに慈しみ扶助しながら、小さき己の能力を超える生産活動を実現し、またときには、失敗や敗北に遭遇して、ともに痛みや悲しみを分かち合い、新しい生きる勇気を獲得してきました。

そこには、愛と憎しみ、善意と悪意、喜びと悲しみ、信頼と諍い…といった人間の本性が渦巻いているのです。企業理念や企業文化、そしてコーポレートガバナンス、内部統制からインターナルマーケティングまですべて、集団に所属する生身の人間の息吹を直接感じながら論じるべき課題です。

無残にも企業社会の秩序や論理がこれほど混乱しているのは、そのような本質的な企業統治のありようが、ウチからもソトからも見えなくなっているからに違いないのです。この部分に正しく焦点をあてない限り、幾多の法令やルールの整備努力にも拘らず、天に唾するような現代資本主義存続にもかかわる事態は、依然として続くように思えてなりません。

 

企業というシステム

さて、「企業とは何か」という問いには、「社会的なニーズを充足することによって社会貢献を果たし、その対価として収益を上げ、持続的に存在し続ける集団」だと定義しておきたいと思います。

そのような営利目的を持った集団活動は、そもそも人間が生産活動において「余剰」を手にしたときからはじまったと考えるべきでしょうが、本稿ではそこまでは遡らず、現代社会の経済活動の基本形態である法人化された企業(株式会社)を前提とします。

ここで、株式会社制度の成り立ちについて簡単に確認しておきましょう。16世紀から17世紀の冒険とロマンの大航海時代に入ると、ポルトガル、スペイン、ついでオランダの覇権により、地中海の商業都市ベネチアを中心に行われてきた通商活動が一挙に世界的規模に拡大していきます。

そして、海洋貿易は、資産家が一航海ごとに帆船や諸経費などの必要資金を出資し、利益を分配するという形態から、「不特定多数の投資家から一定の出資を募り、それを資金にして、継続的に事業を行う」仕組みに発展し、ますます発展を遂げて行ったのです。

オランダ東インド会社(1602年)に至ると、その仕組みは、近代的な株式会社制度として確立し、出資者の有限責任と会社の持分(株式)を譲渡する自由が認められました。

ここで重要なポイントは、当初の株式会社制度は、事業規模の拡大と永続的な資本の蓄積を目的とするとともに、事業活動拡大に伴うさまざまなリスク負担(ステークホルダーへの賠償責任など)を、「関係者(株主や管理者などの)個人責任ではなく、株式会社という法人が担う手段」として確立されたことです。

ここに、資本主義の発展過程における、株主有限責任と法人の社会的責任との絶妙なバランスが感じとれます。株式会社という擬制人格(法人)は、このように原初的に、自然人に固有の(生物学的な)権利能力を除いては、ほとんどの社会的活動とそれに伴う責任(権利と義務)を負うべくして創設されたのです。

これから数回にわたって、企業の社会的責任や企業倫理について考えていきますが、(企業は、その社会的責任として)「何を」、「どのようなかたちで」、「どの範囲で」果たすべきか、というような限定的なアプローチは、まったくわたしの本意でないことにお気づきでしょう。

 

企業不祥事のベースにあるもの

先日の会合である参加者から、「最近、企業不祥事が増加したというが、以前は、(不祥事は)少なかったのでしょうか」という指摘があり、ハッとさせられました。

確かに、最近になって資本主義における企業システムが、その不合理性(不条理性)をさらに大きく露呈し始めたことが、不祥事多発の原因と言えなくもありませんが、従前からも企業はさまざまな反社会的行動を行ってきたのは紛れもない事実です。

思いつくだけでも、高度経済成長時代の地域住民や周辺環境をないがしろにした四大公害訴訟、いくつかの過失の相乗作用によって発生した鉄道大事故や政財界を巻き込んだ前代未聞の汚職事件など、おぞましい事件がすぐに浮かんできます。

ですから、最近になって特に企業不祥事や大事故が大幅に増加したように思えるのは、情報技術(ITC)の進歩による情報量の増大や内部告発等により、露見したり、マスコミに取り上げられたりする件数が増加したと考えるのが妥当かもしれません。

従って、現代の企業を取り巻く外部環境の変化を中心に据えて、新しい企業統治のフレームを確立・強化することは非常に重要だと思いますが、株式会社とそこに所属する人々が、ともすれば引き起こす可能性のある反社会的行動に繋がる発想や機会をいかにすれば少なく(解消)出来るかという本質についての考察を置き忘れてはならないと思います。(つづく)

 

次回は、企業の本質として議論のある性善説と性悪説について、わが国と欧米の企業発展の違いや文化にも思いを馳せて行きましょう。

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筆者紹介

松井一洋(まつい かずひろ)

広島経済大学経済学部教授(メディア産業論,eマーケティング論,災害情報論) 1949年生れ。大阪府出身。早稲田大学第一法学部卒業。阪急電鉄(現阪急HD)に入社。運転保安課長や教育課長を経て,阪神淡路大震災時は広報室マネージャーとして被災から全線開通まで,163日間一日も休まず被災と復興の情報をマスコミと利用者に発信し続けた。その後,広報室長兼東京広報室長、コミュニケーション事業部長、グループ会社二社の社長等を歴任。2004年4月から現職。NPO日本災害情報ネットワーク理事長。著書に『災害情報とマスコミそして市民』ほか。

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