概要
「コーポレートガバナンスや内部統制について、その見直しや強化が叫ばれる昨今、競争と効率性の追求をその本質に秘めたままの企業社会はこれからどこに向うのだろうか」について連載シリーズとして掲載いたします。
最近の企業経営に関する書きものを読んで気がつくのは、「企業活動」とは、「企業が、それ自体として意思を持って活動しているのか、それとも当該企業をリード乃至構成する人間の所業なのか」ということが、曖昧なままで議論されていることがあるようです。また、そのことに関連して、企業性善説もしくは性悪説というのも、誰のどのような行為を対象にして判断されているのか不明確です。
企業の意思とは何か
前回、お話しましたように、そもそも会社とは、資本という一塊の財産に商取引の資格を与えたところからはじまりました。その一塊の財産は、固有の意思を持って経済的活動を行うことができると約束したわけです。
ですから、通常の経済活動によって取引相手等が被害や損失を蒙ったとき、損害賠償や補填の請求は会社(法人)対して行い、その責は経営者個人には直接及びません。(もちろん、経営者や社員の注意義務違反や忠実義務懈怠については、会社法などで内部求償に関する規定がありますが、それは別の問題です。)
すなわち、企業は組織を構成する人間が変わっても、「いつまでも持続的に存在し続ける(going concern)」ものですから,それ自体として固有の考え方や行動様式を持つと考えることが妥当だと思います。そして、その発想や行動特性のベースにある、いわば企業の心を企業理念とか企業文化と呼ぶのです。
わたしたちは、コンプライアンス(法令遵守)やCSR(企業の社会的責任)について考えるときも、ともすれば、その会社を構成している個々の人間に目がいき、企業(法人)という組織そのもののありようについての考察や配慮が不十分になる傾向があります。
コンプライアンスやCSRを達成するためのコーポレート・ガバナンスにおいても、対症療法的もしくは近視眼的な施策に注力し、企業文化や風土の変革という視点を忘れると、企業そのものの行動や考え方を未来にわたって根本的に変えていくことにならないと思います。この点に関して、最近は、コーポレート・ガバナンスという用語ばかり強調され、CI(Corporate Identity)という言葉があまり聞こえてこないのは、その意味で残念なことだと考えています。
企業自体が社会に背くとは
企業が反社会的行動(不祥事)を起こした場合、その実際の行為者はもちろん人間ですから、大方の論理はこうなります。すなわち、「まず、そういう反社会的行動をする人間の個人的な(資質の)問題を問い、その次に、そういう行動が許された(もしくは、求められた)企業文化や風土に目を向ける」のです。しかし、企業人ならば、多くのみなさんは、「まず、そういう行動が許された(求められた)企業文化や風土を問題にする」はずです。
また、何か不祥事が発生するたびに、二度と起こさないための方策として、経営者たちから異口同音に、「今後、コーポレート・ガバナンスの強化によるコンプライアンスの徹底に努めます」と聞かされるのには、いささか閉口してしまいます。なぜなら、そういう問題行動が許される(求められる)という倫理レベルで、その企業には、”誤った”コーポレート・ガバナンスが浸透していると考えるべきなのです。コーポレート・ガバナンスというのは、そのように捉えないと正しく理解できません。漠然と「ガバナンスを強化する」のではなく、「どのようにガバナンスするか」が問題です。
このところの企業不祥事の大量の露見とマスコミ報道についても、そのことの明確な分析がほとんど見当たりません。しかし、その不祥事が個人犯罪なのか企業不祥事なのかを明確にして、ことの是非を判断しなければなりません。そのような「ことの本質」を追求する前に、世間では、トップや責任者などの分かり易いスケープゴートを探し出し、センセーショナルなメディア祭壇に生贄として捧げることで、事件を一過性で終わらせてしまうことが多いのは非常に残念です。
なお、企業不祥事は、「企業の社会的信用とコーポレートブランドを失墜させる」とはいえ、ここ数年、露見した不祥事によって、解散もしくは倒産した企業は数えるほどであり、残りはトップの引責辞任などによっておざなりに片付けられています。決して、市場や社会から、二度と立ち直れないような厳しい制裁を受けたとはいえません。もちろん、多数の従業員やステークホルダー、サプライチェーンに取り巻かれる大企業を、簡単に社会から抹殺することは影響の大きさからも難しいのですが、少なくとも、安易に事件を忘却せず、社会的監視体制の継続が必要だと思います。
企業性善説と性悪説
「欧米では、社会が企業を見る目は性悪説の立場である」とよくいわれます。ですから、企業に対する監視や法令よる制約を強化しなければならないという発想になります。企業の存在がそもそも利益追求(至上)主義であり、市場では、人間の欲望や闘争本能も加味された生々しい生存競争が繰り広げられている以上、一種の反社会性は逃れ得ない性(さが)だというわけです。
翻って、わが国では、「いまだ、企業性善説が生きている」と説かれることがあります。曰く、「企業は悪いことをしないことが前提にあり、法令もその倫理感を支える補助的な役割を担う」と。そのことを頭ごなしに否定するつもりはありませんが、このような二元的でかつ画一的に企業行動を分類すること自体、あまり感心しません。特に、最近はグローバル化やアメリカ的な攻撃的経営論理が輸入されて、わが国の企業もなかなか外部から評価困難な時代になりました。
大切なのは、これからの企業のありよう、そして社会とのかかわりについて、望ましい姿は何か、また、そのためにはどうすべきかを考えることであり、企業に性善説とか性悪説というラベルを貼って解決する問題ではないのです。なお、人間にも性善説と性悪説があります。そのことに関していつも言われることは、それぞれの人間にも必ず両面があるということです。
次回は、いよいよコンプライアンスとCSRについて考えたいと思います。その上で、コーポレート・ガバナンスにおいて、ますます発展し続けるICTが果たす役割をご一緒に考えて行きましょう。
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筆者紹介
広島経済大学経済学部教授(メディア産業論,eマーケティング論,災害情報論) 1949年生れ。大阪府出身。早稲田大学第一法学部卒業。阪急電鉄(現阪急HD)に入社。運転保安課長や教育課長を経て,阪神淡路大震災時は広報室マネージャーとして被災から全線開通まで,163日間一日も休まず被災と復興の情報をマスコミと利用者に発信し続けた。その後,広報室長兼東京広報室長、コミュニケーション事業部長、グループ会社二社の社長等を歴任。2004年4月から現職。NPO日本災害情報ネットワーク理事長。著書に『災害情報とマスコミそして市民』ほか。
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