高村光太郎の処女詩集『道程』に収められている「道程」という詩は,「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる…」とはじまります。日々生きていくということは,一寸先に何が起こるかわからない道なき荒野を旅するようなものだという喩えです。
わたしたちも,このようないつ何が起こるかもしれない不確実な未来に向かって,常に「気持ちを引き締め」,できる限りの「ハードとソフト両面の準備」をしながら,雄々しく立ち向かっていこうと考え始めたことは前回確認しました。
BCP策定までのプロセスが大切
ところで,この原稿を書いているわたしのデスクには,このところ,リスク・マネジメントやBCPに関する参考書が十数冊並んでいます。そのうち,約半分の本のタイトルには『企業(経営)リスク・マネジメント』のように,「企業」や「経営」という冠がついています。それを見ながら,若干,違和感を持っています。
つまり,リスク・マネジメントについての基本的な考え方の理解や,危機発生時に社員(組織員)が一丸となって事業を継続させよういうコンセンサスを得ないで,最初から,当然のように企業経営論のひとつとしてBCPが必要であると論じることは,大切なものを忘れている気がするのです。
わたしは,企業に所属する人々が,心をひとつにしてその企業のBCP策定に行き着くまでのプロセスがとても大切だと考えています。そこを抜きにしては,いくら立派なBCPが出来上がっていても,いざという時,誰がそのために献身的努力をしてくれるのでしょう。
だからこそ,今回のテーマのベースには,さまざまな不確実な未来の出来事に立ち向かう心構えのありようというのは,人間であっても,企業(組織)であってもまったく同じことだと考えましょうと再三申し上げているのです。
人間が生きていくうえでも,LCP(Life Continuity Plan:これはわたしの新しい造語です)が必要です。例えば,大震災の発生に備えて,家具の転倒防止を行い,避難経路や連絡先を確認したり,非常持ち出し袋を用意したりします。また,地震保険に加入して,被害の金銭的な移転を図ります。
BCPというのは,それと同じことを,それぞれの企業においても事前準備として,ちゃんとやっておきましょうということです。何か,新しい特別の仕掛けのように考えると誤解を招くと思います。
ただし,企業の場合は,個人生活の場合よりもずっと事情が複雑です。現代の企業経営は,巨大化,複雑化が顕著ですし,20世紀を支配してきた「規模や範囲の経済」から,高度情報社会の到来によって,まさしく「スピードの経済」といわれる時代が到来しています。それに,IT化による経営情報管理や情報セキュリティ問題は,まさしく企業経営上の根幹に位置づけられる非常に重要なポイントになっています。
リスク・マネジメント
このような考え方に立って,いわゆる「リスク・マネジメント」の分野で使用される用語をここで一応整理しておきたいと思います。歴史の新しい分野ですからいまだ定説というものはありません。それに,用語を厳格に定義してみても,それほど大きな意味があることではないのですが,BCPに取り組んでいく際のお互いの意思疎通の手助けになると思います。
ところで,リスク(risk)という言葉の語源は,イタリア語で「勇気を持って試みる」ということだそうですし,英語でも動詞としては,「(危険覚悟で)やってみる」(リーダース英和辞典)と訳されます。そういえば,企業活動そのものも,英語ではVenture(冒険)というように,リスク(危険)に挑戦していく活動だといわれたりします。
従って,リスクとは,必ずしも事故や災害などのマイナスのできごとを指すのではなく,不確実なできごとの総括した概念です。そこで,『リスク・マネジメント』というのは,「日々に出会うリスク(危険)を適切にコントロールしていくこと」であると幅広く理解しておきたいと思います。日常生活や企業活動は,すべて『リスク・マネジメント』ともいえます。
1962年10月22日
この日,アメリカ大統領J. F. ケネディは、ソ連がキューバにミサイル基地を建設中であり、ミサイルの搬入を阻止するため海上封鎖を実行すると発表しました。『キューバ危機(Crisis)』の始まりです。東西冷戦によって,原爆戦争に直面した人類の生存をかけた危機(crisis)でした。
当時,中学生になったばかりのわたしですら,はるか遠い日本の片田舎で,どことない不安を抱えて過ごした記憶があります。これが,不測事態(contingency)に対応するアメリカのシステマティックな国家安全保障政策のはじまりだといわれています。
その後,研究が重ねられ,この考え方は,国家政策のみならず企業経営レベルにまで敷衍されました。そして,さまざまな経済・社会不安のなかで,不測事態が発生したとき,企業を守り,資本主義社会の繁栄を維持していくための重要な戦略として位置づけられてきました。
これが,『危機管理(Crisis Management)』(今後は,「クライシス・マネジメント」と用語を統一しましょう)といわれる考え方です。ですから,クライシス・マネジメントという戦略には,『想定シナリオ』が存在しなければなりません。そして,発生する危機の種類やレベルに応じて,取るべき手段の優先順位やマニュアルが事前に定められます。
BCPの位置づけ
さて,このように,リスク・マネジメントとクライシス・マネジメントを考えるとしたら,BCPはどこに位置づけられるべきでしょうか。
(図)に示しましたように,BCPは,企業経営におけるクライシス・マネジメントの『想定シナリオ』だと考えましょう。つまり,クライシス・マネジメントを具体的,現実的に実現するための戦術がBCPです。こう考えれば,みなさんが,BCPを策定する場合に発生してくる疑問や諸問題の多くがかなりすっきり解決するはずです。
もちろん,これについても多様な考え方があります。しかし,このシリーズでは,BCPの概念をそのように位置づけ,現代企業経営におけるさまざまなクライシスに立ち向かうための強力なツールにしたいと思います。
なお,BCPの策定には,豊な想像力と冷徹な判断が求められます。それは,戦場や大災害の現場における負傷者のトリアージュ(生存の可能性のある人から治療を行うための選別)にも匹敵するほどです。
言うまでもないことですが,現実に起こる事象は,決して『想定シナリオ』どおりではありません。しかし,多くの人々がショックで我を忘れるようなクライシス発生時には,『想定シナリオによる事前訓練』が大きな力を発揮します。よくできたBCP(=想定シナリオ)は,その場での考え方や行動を最も有効な方向に導いてくれるはずです。
(図)リスク・マネジメントと危機管理(クライシス・マネジメント)概念図
次回から,事業継続ガイドライン第一版(内閣府,平成17年8月1日)などを参考にしながら,いくつかの事業中断に繋がるようなクライシスについて,具体的な『想定シナリオ』を描いて見ましょう。次回は,まず,大震災発生時のBCPについて考えます。
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筆者紹介
松井一洋(まつい かずひろ)
広島経済大学経済学部教授(メディア産業論,eマーケティング論,災害情報論) 1949年生れ。大阪府出身。早稲田大学第一法学部卒業。阪急電鉄(現阪急HD)に入社。運転保安課長や教育課長を経て,阪神淡路大震災時は広報室マネージャーとして被災から全線開通まで,163日間一日も休まず被災と復興の情報をマスコミと利用者に発信し続けた。その後,広報室長兼東京広報室長、コミュニケーション事業部長、グループ会社二社の社長等を歴任。2004年4月から現職。NPO日本災害情報ネットワーク理事長。著書に『災害情報とマスコミそして市民』ほか。
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