概要
2011年3月11日に発生した大震災を受けて、私たちは、災害と隣り合わせの日本人の生活を改めて実感することになりました。 近代という時代のシステムを管理すると言うことが、社会と人間に対してどのような運命を提供していくのかを問います。
ネットワークってなんだった?
network (n.) “net-like arrangement of threads, wires, etc.,” 1550s, from net (n.) + work (n.). Extended sense of “any complex, interlocking system” is from 1839 (originally in reference to transport by rivers, canals, and railways). Meaning “broadcasting system of multiple transmitters” is from 1914; sense of “interconnected group of people” is from 1947. ・・・
(http://www.etymonline.com/index.php?term=network)
ネットワークという言葉は、大いに広がりと夢のある言葉です。経済学では、「ネットワーク外部性」や「規模の経済」のテーマであり、経営学では、「イノベーションをもたらす組織構造」研究で取り上げられています。また、社会学的には、「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」の基本となる思想です。そして一方、「TCP/IPが一気に得意になる~ネットワークの理解にはコツがあった」というハウツー本のタイトルは『いちばんやさしいネットワークの本』(五十嵐順子、技術評論社)というわけですから、これこそネットワークの現代版本家です。わたしは、技術的なネットワーク理論に関して全くの門外漢ですが、ITが社会科学分野の多様なネットワーク理論研究に無限の可能性を拓いたこと、そして、これからも情報社会を先導していくことに強く期待しています。
それにしても、インターネットによるデジタル・ネットワークがはじまるずっと以前、なんと1550年代には、すでにネットワークという考え方が存在したことは驚きです。もちろん、そもそもはnet(網)状のwork(制作物)という意味ですから、想像をたくましくすれば、大航海時代の帆船の帆柱に登る縄梯子が最初のネットワークであったのでしょうか。
ネットワークの変質
そうして、近代化による技術革新のなかで、ネットワークに実際の使用方法や形状以外の大きな「価値」を発見しました。それが運河や鉄道ネットワークなどからくる「繋がりの効用」です。さらに重要なことは、ネットワークに「起点」とか「中心」という概念をつくりだしたことです。現在のさまざまな組織も、定説とは逆ですが、原初的なネットワークの発想から導き出されたものではないかと思います。組織は情報の伝達ルート図です。現代経営学のネットワーク組織論は、起点をつくりだしたり、中心を発想したりすることで、意図的にノードに価値的な優劣(ヒエラルヒー)を付加することで膠着してしまった社会や組織の超克論だといっても誤りではないでしょう。また、新しい情報や有益な情報は、オープンな「弱い紐帯」から生まれる(「弱い紐帯の強み」)というのも、いいかえれば、異文化にこそ、いままで気づかなかったイノベーションの原石が隠されていることの学問的再発見です。
ところで、仮定としては、世界のあらゆる人と組織間のネットワークが完成すれば、ネットワークには一定の限界がきます。人間以外の動物やパソコンをはじめ種々の構造物にもネットワーク的価値を見つけるとしても、技術的ないし計算的には、いまやそんなに困難なことでもありますまい。しかし、そのことにどんな価値や効用を見いだすかは別の問題です。
Webが、時間と空間の超越をもたらしたという表現も不正確です。異空間を情報が異動する時間の画期的な短縮化は認めるとしても、決して零になったわけではありません。実際の空間の隔たりは変わりなく存在し、それがゆえに世界に異文化が存在するのです。異文化コミュニケーション論にいう『多元文化の共生』は、先に述べたように経営学的なイノベーションの引き金ですから、そういう意味でもデジタル・デバイド(ミッシング・リンク)は、これからもある程度は存在してもよいのかもしれません。マクルーハンの「地球村」発想が、現在にいたってもなぜ実現できないのかというテーマは、シニカルに言えば、もちろん「平和」と「平等」が人類の究極の夢ですが、もし仮に完全無欠なコミュニケーション・ネットワークが完成しても、飛躍的な経済的メリットが創造(想像)できないからでしょうか。
「絆」とネットワーク
東日本大震災以降、巷に「絆」という言葉が氾濫しています。「絆」という語は、語感は美しいものの、はたして、人々がどのような意味をこめて使っているのか少し疑心暗鬼になっています。こうした言葉は、大いなる誤解を生み出す可能性があります。全国民が、面識のない被災者のみなさんと個別具体的な「繋がり」の感情をいだくことはできませんから、結局は日本国民としての曖昧な「一体感」をイメージすることにより、「全体からの復興」を推進するスローガンになりはしないか。
また、「寄り添う」という言葉も頻繁に使われます。臨床心理学的には「寄り添う」ことは、時に「見守ること」しかできぬものだと説かれます。しかし、こうして全国的に多用されるとき、「被災者に繋がる」ことや「痛みを分かち合うこと」を漠然とイメージする用語になっています。誰が、誰に、どのように「寄り添う」のかは定かではありません。他人の例えようもない哀しみや苦しみに(黙って)「寄り添う」ことの厳しさと困難さと辛さが正しく認識されていないのではないかと危惧します。
そう考えるとき、さまざまなネットワーク論において忘れてはならないことですが、人々がむやみに「繋がる」ことは、ほんとうに「善」なのかという命題に突きあたります。ましてや、「絆」は、「ほだし」とも読みます。ネットワークという、どこかノスタルジックな語感を持った言葉が、互いを縛りあう「綱」にもなることもあり得ます。いうまでもなく、弱い紐帯をむやみに強い紐帯にしてしまっても何ら望ましい成果はあがりません。
新しいネットワーク社会へ
最後に、社会(関係)資本論からは、地域コミュニティにおける住民のネットワークは、21世紀の希望です。小さな住民ネットワークが、どんどん増殖し、それらが「弱い紐帯」によって巧妙に繋がりあえば、人々が個別の独自性を失わない「いきいき」コミュニティの成立に貢献してくれるでしょう。地域コミュニティの再生とは、そのような小さなネットワークの自己増殖を促すことです。
新しいネットワーク社会は、これまでの多様なネットワークの研究の中から発見されたルールやコードを、既存組織の改善や変革に応用していく、いわば予定調和の時代を超えて、ネットワークの生成、増殖とその統制や制御の理論をどのように構築するかという未踏の領域に踏み込んでいます。だからこそ、一方で「絆」や「寄り添う」という、強い思想を内包した情緒的な用語が、ネットワーク(=繋がり)の代替用語として使われはじめているといっても過言ではないでしょう。そのようなベールに隠され、現代社会の「安全神話」への根本的な疑問や「復興プロセス」についての徹底した議論が封印されたり、変質されたりしてはならないと考えています。
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筆者紹介
1974年早稲田大学第一法学部卒。
阪神淡路大震災(1995)当時は、被災した鉄道会社の広報担当。その後、広報室長兼東京広報室長、コミュニケーション事業部長を経て、グループ二社の社長を歴任。
2001年3月NPO日本災害情報ネットワークを設立。
2004年から広島経済大学経済学部メディアビジネス学科教授。専門は、企業広報論と災害情報論。
各地の防災士研修、行政研修や市民講座講師、地域防災・防犯活動のコーディネーターのほか、「まちづくり懇談会」座長、「まちづくりビジョン推進委員会」委員長として地域コミュニティの未来に夢を馳せている。
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