災害を乗り越える思想~IT社会はどこへ向かうのか

第5回 コミュニケーションという幻想について

概要

2011年3月11日に発生した大震災を受けて、私たちは、災害と隣り合わせの日本人の生活を改めて実感することになりました。 近代という時代のシステムを管理すると言うことが、社会と人間に対してどのような運命を提供していくのかを問います。

目次
現在のコミュニケーション状況を顧みると
コミュニケーションをめぐる諸問題
コミュニケーションは同じ目線でこそ成立する

現在のコミュニケーション状況を顧みると

本稿は、『災害を乗り越える思想』について、3月11日の大災害によって、この国の従来型の災害復興の基底にある発想そのものを変えていく必要があるのではないかという問題意識のもとで取り組みはじめました。前回まで話題にしてきた「備える意識」、「BCP」や「ネットワーク」は、すべていわゆる<コミュニケーション>ということもできると思います。

今回の大災害とその復興にあたって、わたしたちが一様に何かしら焦燥感を持っている理由は、被災地の仮設住宅建設や産業復興の進捗度合いについて(報道で知るかぎり)かなり遅延しているということ以外に、被災者とわたしたちとの間に、ほんとうにコミュニケーションがとれているのかを考えると、なんとも隔靴掻痒の気持ちになるからです。国家予算の四分の一を費やさなければならないほどの大災害の全体像と復興のプロセスは、日増しに断片的になる報道からは容易に見えてきません。先進工業国の一員として、高度情報社会を牽引してきたはずのわが国が、なぜこんな不都合なコミュニケーション状況に陥ってしまったのでしょうか。

現在も危機継続状態にある原発事故について、原発存続派と反・脱原発派が世論を二分し、当面の課題として「節電」とそれに伴う企業活動の停滞に関する議論が繰り広げられていますが、一方で、大災害による一時的な国民的ショックはすでに過去のものとなり、被災地外の豊かな社会状況はみじんも揺るがず、多くの国民は日々の生をこれまで同様に謳歌しています。そして、不思議なことに、再び明日にも起こるかも知れない巨大地震の切迫性が叫ばれ続けているにもかかわらず、全国各地での防災教育や災害文化の伝承が今までよりも活発に行われはじめたとは言い難い状況です。誤解を恐れずに言えば、国民全体が「台風一過」のような精神的弛緩状態にあるのではないか。そんな状況では、いずれ自らも被災者になることを真剣にイメージし、備えることの現実感がほんとうに認識されているのか非常に心許ない状況です。

コミュニケーションをめぐる諸問題

さて、コミュニケーションをめぐる問題について、ここで思想的に論じるつもりは毛頭ありませんが、議論のベースとして『思想としてのコミュニケーション』(尾関周二編、大月書店、16ページ)による五つのアスペクトをあげておきたいと思います。わたしなりに要約すれば、第一は、豊かな現代社会におけるコミュニケーションの疎外や病理を起こす<コミュニケーション不全>問題。第二は、民主主義の徹底や人権にかかわる意識についての国民的な同質化や日本型順応主義、自由な討論の不足などの<コミュニケーション不足>問題。第三は、異文化理解をはじめ異質なものとの「共生」にかかわる<コミュニケーション・ギャップ>問題。第四は、高度情報社会のなかでの情報的コミュニケーションの<コミュニケーション技術>問題。そして第五は、それらすべてに共通の問題性として、近代社会の構造やシステムと密接に結びついた<コミュニケーション主体(市民)の客体化(受動化)>です。

そのうち、大災害との関係で、第二の<コミュニケーション不足>問題と第三の<コミュニケーション・ギャップ>について考えましょう。まず、多様なメディアが溢れんばかりにさまざまな角度から大災害に関する情報を発信していますが、国民の多くは依然として基礎情報をマスメディアの報道に依存しています。しかし、マスメディアの特性として、被害イメージや地域の固定化(いわゆるステレオタイプ)は顕著ですし、「がんばろう!日本」や「絆」などの全国的キャンペーンが同時並行的に行われました。そして、一時の混乱期を過ぎると、どこか「高み」からの唐突な個人物語のクローズアップや断片的な希望情報への特化など、マスメディアが与しやすいテーマが多くなっています。また、風評被害の発生を声高に伝えるわりには、ときに自らも科学的根拠に基づかない曖昧な情報発信により風評を流布したかもしれない一端の責任感は片鱗も見られません。

なぜわたしが「がんばろう!日本」や「絆」キャンペーンから少し距離をおくのかというと、この国に漸く根付いたばかりの民主主義の基本である独立的自己観(エゴイズムに陥っているという批判はあります)が、そのような情緒的な国民的運動によって、ふたたび相互依存的自己観(集団主義)へ後戻りするのではないかという危惧があるからです。言い方をかえれば、今回の大災害を契機として、一定の社会変動や国民文化の革命を伴うかもしれないという権力的危機状況において、社会性と共同性の強調による「均衡状態の維持」への巧妙なカラクリが(期せずして?)発動されたのではないかと考えられます。そういえば、発災当初に多くの識者が発言した「この国の社会や文化のありよう」そのものの見直しの議論は、すでにあらかた沈静化してしまった感があります。

コミュニケーションは同じ目線でこそ成立する

そのことは、第三の<コミュニケーション・ギャップ>にもかかわってきます。

人間は「自分と他人との間になんらかの同一性と普遍性を発見する」とき、コミュニケーションがとれているという意識を持つと言われます。被災者とわたしたちとの『苦しみと悲しみの共有』というのは、豊かな都会に生きるわたしたちが、自らの生き方を変革するという決意表明でなければなりません。災害に遭わなかったものが『苦難の共有』を説き、『寄り添う』ことを主張しても、具体的な自己犠牲(自己の生の見直し)を伴わない限り、外野の応援団にすぎないからです。もちろん応援団や見守りも重要な役割ではありますが、それではどうしても第三者としての立場を超えることはできません。実は、報道から垣間見える、現在の政府と地方自治体との復興に関する葛藤にしても、地方分権と役割分担の議論は理解できるものの、そのようなコミュニケーション・ギャップの存在がうかがえます。

 

わたしたちは、今こそ、情報の一方的受け手から、同じ目線で双方向に情報を受発信するコミュニケーションの主体に変わらなければならなりません。そのとき、わたしたちと被災地、被災者との真のコミュニケーションが成立し、新しいこの国のありようへの議論と自己変革への第一歩が踏み出せるはずです。

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筆者紹介

松井一洋(まつい かずひろ)
1974年早稲田大学第一法学部卒。

阪神淡路大震災(1995)当時は、被災した鉄道会社の広報担当。その後、広報室長兼東京広報室長、コミュニケーション事業部長を経て、グループ二社の社長を歴任。
2001年3月NPO日本災害情報ネットワークを設立。
2004年から広島経済大学経済学部メディアビジネス学科教授。専門は、企業広報論と災害情報論。
各地の防災士研修、行政研修や市民講座講師、地域防災・防犯活動のコーディネーターのほか、「まちづくり懇談会」座長、「まちづくりビジョン推進委員会」委員長として地域コミュニティの未来に夢を馳せている。

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